心理学と「まわる神話」物語り解釈つづき

 ルランドゥスはこう書いている「想像」<イグナティオ>とは「人間の内なる星辰すなわち天体ないし超天体である」この驚くべき定義は「作業」<オプス>に随伴する空想<ファンタジー>過程に、まったく常識を超えた、独自の照明をあてる。つまりわれわれは空想像<ファンタジー>というと、つい実態のない妄想のようなものをかんがえがちであるが、「作業」<オプス>に随伴する空想過程の場合は決してそのようなものとうけとってはならず、体(corps)をそなえたもの、すなわち半ば霊的性質の一種の霊妙体と考えなければならないのである。経験的な心に関する心理学がまだ存在しなかった時代には、心的事象を有体と見るこのような具象化は必然の成行きであった。というのも無意識的なものはすべて、それが何らかの活動を起こせば必ず物的なものに投影されたからである。

 つまり無意識は内からではなく、物的なものを通して外から人間に歩み寄ってきたからである。無意識はいわば、未開人の心理にもよく見られるような精神と自然の間の子、すなわち一種の具象物であった。そういうわけで「想像」<イマギナチオ>もまた自然行為の一つとして物質的諸変換化として位置しており、物質の変化から影響を及ぼすとともに、逆に物質の変化から影響をこうむるのである。

 錬金術はこのような形で単に無意識と関係を持っただけでなく、物質とも、それも直に関係をもったのであって、彼らは「想像」<イマナギナィオ>によって物質を変化させたいという希望があったのだった。
『心理学と錬金術』Ⅱ 錬金術における救済表象 p68〜69

 物語り解釈として『指輪物語』の冒頭を解釈してみる。
 序章
一 ホビットについて
 ホビット族はきわめて表にでたがらない、さりながらかれらはなはなだ古い種族で、以前は人数も今日とくらべものにならないくらい実に多かった。 というのも、平和と静けさとよく耕された大地を愛する種族だかである。整地よく、耕作よき田園こそ、かれらのこのむ棲家だった。かれらは道具のあつかいかたがうまいくせに、今も昔も、炉とふいご、
水車、または手織りばたの類より複雑な機械はわからず、あるいは好まなかった。古代にあってすら、ホビット族は一般に、かれらがいうわれわれ人間族の通称「おおきいひとたち」をうとんじていたのだが、今日ではわれわれのすがたをみると怖れあわててさけるので、かれらを発見することはむずかしくなってきている。かれらは耳ざとく、目が利き、大体がふとるたちでいざとなったらけっしてあわてないくせに、動作はす早く機敏である。かれらは、自分たちが会いたくない人物たちが会いたくないとおもっていると音もなく速やかに姿を消す技術を最初から所有していたのだが、だんだんそれを発展させ、ついには、人間には魔法と見える域にまでひきあげた。しかしホビット族は未だかつて、いかなる種類の魔法も習得したことがなかった。かれらの穏身は、ほかでもない、遺伝と修練と大地との親交の結果、もっとも不器用な種族には真似できないものとなった特殊技能のせいである。

 ホビット族は我が家の一族と全く同類である。わたしは指輪物語をしっかりよんでみてホビットがこれほどまで我が家の一族と酷似していたことにおどろいた。

≪かれらの穏身は、ほかでもない、遺伝と修練と大地との親交の結果、もっとも不器用な種族には真似できないものとなった特殊技能のせいである≫

とはおそらくは体操競技のことであろう。スポーツ運動学の発展が現在著しいが、私は病気療養中で半年間はアウンサン・スーチーさんのように沼津で軟禁とラカンの即興演技術の思想統制をおこなわれている。


≪自分たちが会いたくない人物たちが会いたくないとおもっていると音もなく速やかに姿を消す技術を最初から所有していたのだが、だんだんそれを発展させ、ついには、人間には魔法と見える域にまでひきあげた≫

叔父もその魔法を駆使することができる。
 私は大学の先生に「魔法使いの弟子入り」をしたがいまだに「魔法」をつかって沼津でなにかをおこしたことがない。そのうちに
≪もっとも不器用な種族には真似できないものとなった特殊技能≫である「体操競技」というものに挑戦することで、
私のうしなわれた時をもとめていくことになるとおもわれる。

 実際に「体操競技」に向かうとすれば親戚のいる沼津中央高等学校か静岡学園となるとおもわれる。それがすんだあと矢田部英正氏と東京でコンタクトをとって身体の形成知や「こどもの精神発達に身体の立ち振る舞いはどのように影響をおよぼすか」に焦点をしぼって対話していきたい。