プロタゴラスより

 私は京都にいるとき『プロタゴラス』の内容そのままの生活をおくっていた時がある。プラトンソクラテスとそのかかわった人々の言動を筆記した。いわば、口述筆記である。プラトンの研究はドイツでもイギリスでも行われているが、イギリスの研究がもっとも盛んである。哲学研究にかんしてはある作品をどうみなすかによる。
第三章より

 それからぼくたちは立ちあがって中庭に行き、そこをぶらぶら歩きまわった。ぼくはヒッポクラテスの気持の強さをためしてやろうと思って、質問をして彼をよくしらべてみることにした。
 「ちょっときくが」とぼくは言った。
ヒッポクラテス、君はいま、プロタゴラスのところへ出かけて、君自身のために報酬として金を払おうとしているわけだが、いったい君は自分がこれから行こうとしている人物がどういう人だと考え、また、自分が何になるつもりで行くのかね?―たとえば、かりに君が君と同じ名前のアスクレピオス派の医者、コス島のヒッポクラテスのところへ行って君自身のために報酬として金を払うつもりでいたとする。その場合、誰かが君に向って『君にききたいのだが、ヒッポクラテス、君は、君がこれから報酬を支払おうとするヒッポクラテスという人を、何者であると考えているのかね』とたずねたらとしたら、君は何と答えるだろうか」
「医者だと考えている、と答えるでしょう」
「『自分が何になろうというつもりなのかね』ときかれたら?」
「医者になるつもりだ、と答えるでしょう」
「では、かりに君が、アルゴスのポリクレイトスやアテナイのぺディアスのところへ行って、君自身のために彼らに報酬を支払うつもりでいるとした場合、誰かが君に、『君がポリクレイトスやぺディアスにその金を支払うつもりでいるのは、つまり彼ら何者と考えてのことなのかね』とたづねたとしたら、君は何と答えるだろうか」
「彫刻家、と答えるでしょう」
「『君自身は何になろうというつもりで?』」
「むろん、彫刻家」
「よろしい、さあそれでは、いまぼくと君とはプロタゴラスのところへ行って、君のために報酬として金を払う心づもりをしている―われわれの財産だけで彼を説き伏せるのにこと足りるならばそれでよし、たりなければ、それに加えて友だちの金をつぎこんでまでね。そこでもし、誰かが、それほどまでにこのことにひどく熱心になっているわれわれに向かって、こうたづねたとしよう。『ぼくに行ってくれ、ソクラテスヒッポクラテス君たちはプロタゴラスをどういう人とかんがえて、金を支払うつもりでいるのか』とね。われわれはこの人に何と答えたものだろうか。われわれが耳にするところでは、プロタゴラスには、肩書きとしてどんな名前がつけられているのだろうか。われわれが耳にするところでは、プロタゴラスには、肩書きとしてどんな名前つけられているだろうか。ちょうどぺディアスは彫刻家、ホメロスは詩人と呼ばれているのと同じような意味で、プロタゴラスの場合には、どのような名前をわれわれは耳にしているだろうか?」
「世間でよばれているところではたしかにあの人はソフィストであるということになっていますね、ソクラテス」と彼は言った。
「すると、われわれは彼に金を払おうとしているのは、彼をソフィストと考えてのことなのだね」
「たしかにそのとおりです」
「そこでもし誰かが、さらにこう君にたづねたらとしたら?『それでは、君自身は何になろうというつもりで、プロタゴラスのところへ行くのか』」
 すると彼は、顔をあからめて答えた―すでに空もいくらか白みかけているので、彼の様子がよくわかったのだ。
「先のいろいろな例にならうとすれば、明らかに、ソフィストになるためということになるでしょうね」
「だが、君としては神々に誓って自分がギリシア人たちの前にソフィストとして現れることに気がひけはしないだろうか」
「ほんとうのところはそうなのです、ソクラテス。―心に思うことそのまま打ち明ければならないとすれば」
「しかし、ヒッポクラテス、おそらく君は、君がプロタゴラスから学ぼうとしているものが、そういった性質のものと考えているわけではないではないだろうか。むしろそれは読み書きの先生や竪琴の先生や体育の先生から学んだのと同じような性質のものなのだろう?つまり君は、そういったもののひとつを、自分が本職の師匠になる目的で、専門技術として学んだのではなく、一個の素人としての自由人が学ぶにふさわしいものとして、一般教養のために学んだわけなのだ」
「たしかにおっしゃるとおり、プロタゴラスから学ぼうとするのは、むしろそういった性質のものであるように思われます」

プロタゴラス』藤沢令夫訳、岩波書店より

医者の存在をソクラテスが疑問視している。プロタゴラスからヒッポクラテスの医学の学び方は本当の医者になるための学び方ではないとしている。
一般教養としての医学は現場の医学としては活かせない。
この問題は映画『孤高のメス』の中の
「医者になることよりも医者でありつづけることほうが何十倍も難しいんだ」という当摩先生の台詞に限りなく近い。