臨床哲学と文献研究の噛み砕きにくさ

 カフェや寺子屋などで哲学の問題を議論することは簡単なことなようでかなり難しいことである。哲学は体系的に古代、中世、近世、現代と紆余曲折はあるものの哲学者が書き残した文章を読んで自らの思索を練ってその思索を他者とともに議論することで身近な問題例えば「どうして家族は喧嘩するのだろう」とか「身体は物質なのか、それとも精神の塊なのか」とか「よく生きることはどう生きればいいのだろう」とか教科書では解決できない問題を歴史の哲学者たちは考え、そして本として残している。

 伝統的な文献研究にのめりこむと「自分の考えたこと」が「そうではない」という状態に変化する。それは歴史の網目をかいくぐってきた哲学書の読解によってその哲学者の考え方を追体験することになるためである。助教授との対話でその問題が浮かびあがってきた。原文は外国語でありその翻訳を自ずからすると「自分のかんがえていたこと」が追体験によって「そうではない」という状態になる。

 それは教育の問題にもあてはまる。未知なる外国語に飛び込んで<もがき苦しむこと>は「頭の体操」になるばかりか、多文化理解を身をもって感じるものである。日本哲学の場合は事情が困難に感じる。西洋の思想を超克しているのかそれとも二番煎じなのか研究者のあいだでは議論がたえない。日本哲学とくに西田幾多郎を中心とした京都学派は西洋哲学を積極的に受容し、それを超える思索をあみだしていった。

 教育のことをかんがえると臨床教育学となるだろうが、哲学をどのように教育に伝承していくことができるのかその「やりかた」がまだ体系だっていない。さまざまな外国語をみにつけることは恩師曰く「精神に規制がかかる」そうである。つまり「自らの思い込み」から真実へと変貌をとげるのである。

 このことを考えたのは私があまりにも外国語が嫌いで人とコミュニケーションをとることがおっくうであったためである。「外国語はおしゃべりな人ならどんな言語でもみにつきます」と最初の英語の授業に先生に言われたが、私は「おしゃべりな人」ではなく「寡黙な人」だったので中学、高校と英語にかんしては長文読解以外はさっぱりだった。

 現在は古典ギリシア語を独学で学んで北白川の寺子屋で正式に学んで「語学コンプレックス」を一歩、一歩着実に古典ギリシア世界にもなじみラテン語世界にもなじんで「場所」をひろげていきたい。