教育哲学ショートショート 『べトル氏の動き』

 べトル氏は体操競技をやっており、理論家としても有名だった。毎日、砂を噛みしめるような練習と中学生や高校生との交流で<生き生き>とした運動理論をかいた。べトル氏はクラシック・バレエ観照することが趣味で舞踏家であるバシリアリ・アドリノフ氏と友人であった。バシリアリ・アドリアノフ氏は空間に存在しているときに、ふわりと静止した状態になり、きわめて美しかった。
「今日も練習だ」
 べトル氏は床、鞍馬、平行棒、吊り輪跳馬と丁寧になおかつ淡々と練習に取り組んだ。べトル氏は倒立が美しく、また回転したときに眼がまわらなかった。ときどき、バシリアリ・アドリアノフ氏は練習場をのぞきに来る。バシリアリ・アドリアノフ氏もまた体操競技をやっていた経験があった。
「君は回転するときに胸で回っているね。それはいいことだよ」
「へへへ・・・・・・」
べトル氏は微笑みながら炭酸マグネシウムをてのひらにこすりつけジュースをかけた。練習は6時間におよんだ。
 あくる日、バレリーナであるピッピリーナが『ドン・キホーテ』のキトリをフランスで舞っていた。ピッピリーナは半分ロシアの血とフランスの骨をもって生まれてきたバレリーナだった。音楽はいつも『くるみ割り人形』かベートーベンを聴いていた。ピッピリーナは語学が苦手だった。そのためにクラシック・バレエの道に進むことになったのよ、とべトル氏に語っていたことがあった。
 天使がよくべトル氏にまとわりついて見守っていた。天使はいつもべトル氏に見守っていた。べトル氏は近眼でめがねをしなくてもいいように心理学や哲学の勉強をしたそうであるが、天使が「善い眼」をさずけてくれたおかげでめがねをはずしても体操競技の演技をすることができた。

 マイヤ・プリセツカヤの『白鳥の湖』を観たことが私の世界観を変えた。マイヤ・プリセツカヤの踊りは私がクラシック・バレエをやっていた経験があったためかその観る者を人生の底から変えるほどの力を持っている。彼女の踊りには陸上競技の「走り幅跳び」のような<軽やかさ>があるわけではない。踊りそのものが人生であることをクラシック・バレエに触れた者には痛感させられ、初めてクラシック・バレエを観たのがマイヤ・プリセツカヤの踊りであったならば、クラシック・バレエの踊りが<そうである>と根強く刻み込まれる。
 何気ない汗からのしたたりでさえも『白鳥の湖』の演目にしみこませてしまうほどの力をマイヤ・プリセツカヤは持っている。観る者は過去の思い出をマイヤ・プリセツカヤの演技のなかに重ね合わせてしまう。そこには存在としての力が圧倒的にあるためである。そこまでの演技をなしとげるためにどれほどの時間を練習に積み上げてきたのであろう。
 しかし、真の踊り手はきわめて強い感受性を持っていることが多い。光、音、場所、観客が笑っている、舞台が善い香りを放っている、カーテン・コールの瞬間がここち善いなど。私たちの日常と同じものを演技によって前面に描きだすので観客は何のためらいもなく涙をぽろぽろと流し、自らの人生をふりかえることさえもあるのである。
 私はマイヤ・プリセツカヤの『白鳥の湖』を観て友人や家族の大切さ、自らの通るべき道などを一気に考えさせられた。身体が身体と重なりあうようにあるべき道すじを照らされたのである。顔の表情からにじみ出る白鳥の王子への思いは<極みのなかの奥深さ>を表現しているようだった。