乙女の世界

私は大学の研究室にはいると必ず乙女の先輩がはいってきた。西洋哲学の先生の研究室には『プラトンの想起説』について書いた先輩と『耳をすませば』が異常に好きな先輩がやってきた。そのときは一回生だったので哲学科で乙女がいると少し安心したが、先生と交わされる会話が「いかにも哲学科的なキャラクター」だったので半分安心して半分不安に思ったことは否めない。
 『プラトンの想起説』を書いた先輩は「えっ!うそ!・・・えっ!うそ!」とギラギラした目つきで私の「藤沢令夫先生はどんなひとですか」という問いに驚愕の受け答えをしていたので『プラトンの想起説』を書いたことはあるな、会話がプラトニックでまたプラトニックな先輩だった。となりにいた『耳をすませば』が異常に好きな先輩は読書がすきらしく、眼差しがきらきらしていた。歌のような先輩だった。
 一方、倫理学の先生の研究室にはいったら、アダム・スミスの『道徳感情論』から共感(シンパシー)についての卒業論文をかいてきた。ワードの資格があることをそのとき私は初めて知った。しかし、先輩はミスがおおかった。なんどか倫理学の先生に訂正をうけ「ワードの資格をもっているだろう」といっていた。何度か携帯電話の音がなったり先輩のおなかがぐーぐーなったりした。とても親切な先輩で卒業論文の書きかたをおしえてくれた。「身体が期限の時間に学生支援課にはいっていないといけない」と身体論からのアプローチもしさしてくれたので現在の私の身体と存在と美学のきっかけをつくってくれた。
 その翌週、その先輩が別の先輩をつれてきてやってきた。別の先輩はやや狡猾なところがあり口頭試問のときに別の先生に口添えをしてくれと倫理学の先生にいっていたのでわけがわからなかった。なぜなら、セネカの『怒りについて』の卒業論文は見事な装丁でこしらえられていたのである。乙女は狡猾な人もいるとその時学んだ。その先輩はきょろきょろと研究室の蔵書をみまわして知的好奇心が高いらしかった。
  このふたりの先輩がいるとき私はクラシック・バレエの稽古をしていた先生との面談の夜がちょうどレッスンの日だったである。私は緊張をだまくらかすために先生との面談におよんでいた。クラシック・バレエの稽古には男性は皆無。その影響から乙女の先輩がきていたのかもしれない。ちなみにそのとき勉強していたのはジョン・ロックの『統治ニ論』だったが、リックサックには西洋哲学の先生の『ニコマコス倫理学』もはいっていた。  
倫理学の先生の研究室では先生がコーヒーミルをつかってコーヒーをこしらえてくれる。コーヒーの味と雰囲気はいつも研究室で味わい学んだ。飲まない人もいた。その先輩はキリスト教がすきらしく友達がキリスト教新興宗教にいりびたって言動がおかしくなってきたと告白していた。こんなことが、あるのか哲学科・・・・・・ひそかにがっくししながらきいたら倫理学の先生は「歎異抄よみなさい」と言った。それから、シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』をすすめた。シモーヌ・ヴェイユは信仰心が篤く民衆のために工場へ労働にいったりすこしこまった性格だったので「でも、シーモーヌ・ヴェイユをきみにすすめるにはなぁ」とげらげら笑いながら倫理学の先生はつぶやいた。
 
 結語
倫理学をまなんでいる人々はキャラクターが蜂蜜のように濃い。それが他の分野から「あのひとはすこしかわっている」といわれる所以なのかもしれない。100人いたら20人も考えないことをかんがえている哲学科は不可思議な人間の集まりでもあるがおもしろさもまた濃い。