『まわる神話構想ノート』より

 私は文章を書くことに自信をもっていない。そして、何を書いたら善いのかもわからないまま時をすごしている。しかし、<意識の流れThe Stream of Consciousness>の文学の文学を読むことによって自己の記憶からエッセイのようなものを書こうと考えている。<意識のながれThe Stream of Consciousness>の文学はトルストイの『アンナ・カレーニナ』やマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』などがぼやぼやした心情を描くことに成功している。心理学者のウィリアム・ジェイムズの兄弟のヘンリー・ジェイムズも<意識の流れThe Stream of Consciousness>の文学を意識して<物語り>をつむぎだしていた。
 自己の記憶のなかの無意識の鉱脈を掘りすすめるように書くことはかなり難しいことである。ウィリアム・ジェイムズは「意味のない散歩が大切なんだ」とかつて言っていたことがある。私は京都でクラシック・バレエを稽古していたときウィリアム・ジェイムズの考え方を実践するために眼鏡をはずして踊っていた。ウィリアム・ジェイムズの「純粋経験」すなわちPure Experienceを身体を媒介にして考察していたのである。
 <意識の流れThe Stream of Consciousness>の文学は主体性が作品のなかに色濃く出てこないために読み手は<自己と他者の限りない開け>についてかんがえざるをえないくなる。無色なものを媒介にしてゴッホの絵画やロシアの作曲家ストラヴィンスキーが書いた『春の祭典』の世界へと読者は無意識の世界から深層心理の世界へと深まっていくのである。
 深層心理の世界はマルセル・プルーストジェイムズ・ジョイスそしてヴァージニア・ウルフの作品群を「神話」とみなし、自己の内観に向かわせる。そのことは社会に関わることとは無関係に思われるが、じつはそうではない場合が多い。自己の深い内観がなければ、他者との深い人間関係を築くことはできないし、自己の深い内観をおこなわなかったならば、人間関係で苦悩をかかえることにもなるかもしれない。なぜならば、<自己は他者のあらわれ>であり、自己は他者との人間関係の内でしか自己を見いだすことはできないためである。自己の内観における深化は宇宙観をもつことができる。自己の内に宇宙観をもつことができれば、他者との感情の共感(sympathy)や文学や芸術に対する感情移入も深く鋭いものとなるであろう。
 私の内観は「書きながら読み」そして「読みながら書くこと」である。多面的な宇宙観を生成するために体系的に書いていき、読んでいくように理性をはたらかせながらおこなっている。<生命の充実>は理性的な哲学よりもむしろ<意識の流れThe Stream of consciousness>の文学から心理学や倫理学の問題を書きだしていくことはやさしいことではない。なぜならば、<他者とのかかわり>を<意識の流れThe Stream of Consciousness>の文学から見いだすことにもなるためである。そして、そのことを日常生活のなかで見いだすこともまた身体を媒介にしなくてはならず、難しいものとなる。
 特に私は朝、起きることが苦手でフランス語や英語、ドイツ語や古典ギリシア語を読み、書き、聴くことが苦手なために固有名詞を文章に介入せざるを得ない。文章にエロティシズムを介入していこうにもそのことはできない。<意識の流れThe Stream of Consciousness>の文学は<自己と他者の限りない開け>を有しているからこそ、限りなくエロティシズムに充ちた文学になっているように思えてならない。