『まわる神話構想ノート』より

 私はピアノの道にすすむべきか、クラシック・バレエの道にすすむべきか悩んでいる。沼津にはそれぞれ特色のあるピアノ教室やクラック・バレエ教室が有る。どちらもやることは<意識の流れ>や<時の流れ>を発達心理学ハイデガーの現存在分析を「精神病理学における人間関係学」について考察するうえで有効だと思われる。芸術に関してはあくまでも新約聖書の教えに立脚しておき、実践においては仏教の哲学や禅の思想に立脚することにする。
 ピアノでもクラシック・バレエでも発達心理学ラカン精神分析学につうじるsenseがあると感じている。文章を書くときでも音楽をペンから奏でるように書いたほうが善い文章を書けた、と思うことが多い。
 心理学を猿から研究しているを知っている。私は音楽を西田哲学の「純粋経験」としてヘーゲルの『精神現象学』やハイデガーの『有と時』の存在論や現存在分析をとおして「精神病理学における人間関係学」として探求していきたい。
 アリストテレスの『ニコマコス倫理学』はピアノやクラシック・バレエをやっている人が読んでも有益な本だと思われる。的に適中するためには的をひとつにしぼらなくてはならないとか習慣が人をつくるなど教育に関する鋭い眼差しがむけられている。アリストテレスはなにごとにおいても中庸でなければならぬと徳目のなかでのべている。私は<やりすぎ―やらなすぎ>にすぐに移行するので考えなくてはならない。京都ではバイオリンをやっていたが現在はお休み状態である。沼津にはピアノ教室が有り、ときおりながれてくるピアノの音色で驚かされるときもしばしばである。クラシック・バレエ教室も沼津のあちらこちらにあって、まよってしまう。精神科医であったBin Kimura氏は「私が精神科医になったのは音楽をやっていたからです」と私が予備校にかよっていたときにおっしゃっていた。ユングもまた精神科医ユングの内なる「魂の告白」が『ユング自伝』のなかに綴られている。
 音楽といえば最近ワルツをくりかえし聴いている。ワルツは「1・2・3」と三拍子でくりかえされる。日本人にはなじみのない音階らしく私も京都でクラシック・バレエを稽古していたときはまったく<なじむ>ことができなかった。身体と音楽と<意識の流れ>の違いについて考えながら踊っていたためであろう。踊りや音楽を奏でる時には「無師独悟」の精神で、自己の意志を持って踊らなくてはならない。