時間のなかに生きる 『教育哲学ノート』より

 私は時間のなかに生きている。このことは疑いようのないことである。身体は物質なのかあるいは精神なのか考えてみると、答えはわからなくなる。精神を身体の媒介として書物を読むとき、私は身体の器官の眼をとおして書物に書かれた文字を追っていく。その行為によって私は書物の著者と対話することができる。
 
 しかし、対話者である著者と私との<生きてきた流れ>に大きな差異があればあるほど書物を読んで著者の<声なき声を聴く>ことは困難となる。
 
 このことは音楽の伝承においてもいえると思われる。師の<声なき声を聴く>ことは師と弟子の長年の信頼関係がなければ成立しない。特に音楽の場合、<時間が生成される>という現象が発生する。<音楽の時間>はその「場所」を共有している人と人とのあいだの魂に響きわたり、<日常の時間>とは一線を画す<音楽の時間>となる。この<音楽の時間>が流れている「場所」を共有している人と人とのあいだに魂にはいったい何が響き、<意識の流れ>にはどのような影響がもたらされているのだろう。
 
 私はヘーゲルフッサールそしてベルグソンの思想を紐解き、かき混ぜながら「魂の錬金術の書」として『教育哲学ノート』をこつこつと書き進めていきたい。それこそが、渡辺二郎先生や藤澤令夫先生の探求を感性的におこなっていくこととつながると思われる。
 『教育哲学ショートショート』は「魂の媒介の断片」としてかきつづけていきたい。