『まわる神話構想ノート』より

 「書くことは生きること」ということを映画『僕と妻の1788話の物語』を観て様々なことを考えさせられた。私のこれからの生き方がそのままスクリーンに出ているようでもあって武者震いをした。キリスト教的な演出があったり、主人公が病院の食堂で一身にショートショートを書いていると、ひとり、ふたりとさしいれをもってきてくれるシーンが印象的だった。

 ショートショートは自らが生み出す『聖書』のようなものかもしれない。星新一さんの姿勢は「書くことは生きること」なのかもしれない。「書くことは生きること」という姿勢は眉村卓さんにもうけつがれていた。

 物語がアメーバのようにつながっていくことは<倍音の文学>のなかの吉行淳之介さんのマイナーポエットの掌の小説や北川悦吏子さんの会話の流れ自体が<生き生きとした流れ>になっているダイヤモンド小説にあらわれている。また、北杜夫さんの『楡家の人々』にはドイツ作家トーマス・マンの『ブッテン・ブローグ家の人々』をもとに北杜夫さんの「人生の境涯」が文体と人間関係としてあらわれている。私はカント『純粋理性批判』やハイデガーの『有と時』、ヘーゲルの『精神の現象学ユングの『ユング自伝』『新約聖書』を音読することによって考察していきたい。

 水谷修さんの働きはフッサール現象学や恩師であるキリスト教の考え方や渡辺秀先生の<あたたかさ>によってささえられており、なおかつその<あたたかさ>が他の人々に伝承することによってひろがっている。
 私の高校3年生の英語の恩師も水谷修さんの同じ大学の間柄であり、恩師は横浜のフェリス女学院に通っていた。高校の国語の古文の恩師もまた同じ学び舎の門を出ており、英語の恩師とは友愛の間柄で結ばれている。

 私は教育の「場所」を考察し、ヘーゲルの『精神の現象学』やフッサール現象学、そしてベルクソンの『意識に直接あたえられるもの』から臨床心理学のなかでユングやロジャースの思想を幼児教育のなかに活かしていきたい。

 そのためにも高校の英語の恩師をとおしてフェリス女学院におけるキリスト教に<根をはった>宗教・人間教育にふれてみたい。

 1月28日〜2月までは沼津に存在する予定であるので高校の数学の恩師と、高校の英語の恩師とでお茶かコーヒーか紅茶を飲んで哲学カフェをしたい。

 特にプラトンの作品はすべて英訳されており、哲学の研究になると古典ギリシア語がくわわる。プラトンでつかわれている言語は古典ギリシア語のなかでもアッティカ地方のコイネーという方言ではなされていたものをしようされている。現代ギリシア語とは一線を画している。また、『新約聖書』はギリシア語で書かれており、田川健三さんの仕事には頭を上げることができない。