『純粋理性批判』朗読の苦悩

 私は助教に「『純粋理性批判』は読んでてあたりまえだよ」といわれたので「もうすでに一回青線をひきながら読みました」と言った。沼津に帰還してからは朗読して身体にたたきこんでいる。

 しかし、カントの思索は強靭極まりないもので、3ページよんだだけであっという間に神経衰弱になってしまう。かつて京都の下宿で西田幾多郎の『善の研究』と『思索と体験』を坐禅をくみながら朗読したが、西田幾多郎もまたその強靭な思索力でへとへとになってしまった。

 最近、新約でよみやすいものがでたが、京都学派の専門としている助教には「原佑さんのものをよんで」といわれて目下、実家で朗読をしている。
純粋理性批判』は京都学派のメンバーがすべて読んだ。『精神の現象学』とおなじく登竜門的な哲学書である。柄谷行人さんも『純粋理性批判』を英語に翻訳したり、フロイトラカンの知見を集約して『世界史の構造』という著作を上梓している。

 私は基本的にフロイトが嫌いである。深層心理学に興味を持ってフロイトの『精神分析学入門』を読んだら性が人間の生きる活力になるとか、患者をねっころがしたまま患者の負担をけいげんするとか、不可思議なことばかりかいてある。わたしも神経質だが、フロイトもまた神経質なのでまったく肌にあわない。

 京都のいきつけの整形外科にいったとき、「1+1ななんで2になるとおもう?」とたずねられたとでその瞬間は「まだ勉強不足なのでわかりません」とこたえた。西田哲学でそんなことがかいてあったかなぁ?フッサールの『算術の哲学』にそんなこと書いてあったかなぁと考えていた。
そのあと、精神科医新宮一成先生の講演会でその理由がフロイト理論の性に関するものだったので腹をかかえて笑った。

 私は精神分析に関してはあまり好きではない。なぜならば上から目線の雰囲気がびんびんにかんじられるためである。ラカンメラニー・クライン
にかんしては少し興味がでてきたが、『臨床心理学体系』をひもといてみるとてっていてきにかぶれないとだめである的なことがあったので、ユングの理論にかぶれることにした。ユングの理論はクラシック・バレエのお伽噺の神話解釈の展望が見える予感がするためである。