友愛についての考察 『ニコマコス倫理学』第八巻よりと『アリストテレスの倫理思想』第八章 愛の比較より

 アリストテレスの考えた愛とはいったいどのような考え方であったのだろうか、『アリストテレスの倫理思想』岩田靖夫著、岩波書店のなかでアリストテレスが考えた「愛の定義」があるので以下に引用抜粋してキリスト教アガペー(無条件的な愛)と隣人愛との違いについてここで考察していきたいと思う。

 愛の定義
 アリストテレスは、愛(φιλία)を先ず次のように規定している。「先に述べた理由の一つにより相互に好意を抱き、お互いが相手の善を願うこと、しかもそのことがともに相手方に知られていること」この定義のうちにはいくつかの問題点があるが、これをあきらかにすることにより、以後の考察の手がかりを得ることにしよう。

(1)「先に述べた理由」とはなにを意味するかというとおよそ愛(φιλία)は「愛されるべきもの(τό φιλητόν)」を対象とするが、「愛されるべきもの(τό φιλητόν)」は
「善いもの(τό αγαθόν)」
「快いもの(τό ήδυ)」
「有用なもの(τό χρησιμόν」
の三つであり、従って、愛の成立根拠は、善、快、利のいずれかになに他ならない、ということである。

(2)次に「相互に好意を抱き、そのことがともに相手方にしられていること」という相互性の強調の意味は何かといえば、およそ愛は、一方的なはたらきかけ(独りよがりの親切)としては成立せず、必ず相手方からの主体的な応答(άντιφίλησις)をまって、はじめて愛として成立する、ということである。従って相手が無生物の場合には(たとえば、美術品や銘酒の場合には)嗜好は成立しても、われわれの呼びかけに対する応答はありえないわけだから、そこには愛は存在しないのである。
 それ故、アリストテレスは、好意は愛でない、という。なぜなら、好意においては、一方的に相手方の善を願いながら、同じ善が自分に還ってこないからであり、そこには相互の認識と共同(συμπράσσω)が欠けているからである。だが、もちろん、好意はフィリアー(φιλία)的なものである。それは、いわば働きの弱いフィリアー(φιλία)であり、従って、これを時間と共同の生によってそだてあげ、相互的な心のつながりにまで深化させることができれば、それはフィリアー(φιλία)になる。この意味でアリストテレスは好意はフィリアー(φιλία)の「始め」もしくは「原理」(άρχή)である、という。
 以上の第二論点において、アリストテレスの指摘する応答の相互性は、ある意味で、愛の極地を指示するものであるが、これの実現の可能性に関しては、アリストテレスは充分に自覚的な理解をもっていなかったように思われる。なぜなら、後に論ずるように、応答の相互性への願いは、われわれ自身に非常に厳しい要求を課するものであり、愛が深遠であり一種の自己抹殺であることを垣間見させるのであるが、このことについて、アリストテレス朧げな理解は確かにもっていたが、完全な理解はもっていなかったらしい、といえるからである。そして、この境地においては、好意がフィリアー(φιλία)のアルケー(άρχή)であるこという言葉はアリストテレス自身の言葉を超えて、きわめて重大なものと化するであろう。

(3)最期に、「お互いが相手の善を願う」という論点である。この論点のうちには二つの問題がある。
一つは、愛が、俗な意味での「自己中心性」の否定である、という点である。それが、自分のではなく、相手のという言葉の指す事態である。だが、なぜ、「俗な意味での」という限定を付さねければならないのかといえば、愛がどれほど自己抹殺に近いとしても、自己を滅ぼすことがではありえないからである。そういうことなら、愛とは自殺に他ならない。しかし、真実は逆で、愛とは自己を活かすものなのである。それ故、自己中心性の否定というという時、そこで言われている自己は、実は真実の自己ではないことになるが、この点は、愛の解明が後に論ずるように、「自己とは何か」という核心的問題の解明を前提にすることを、示している。
もう一つの問題点は、相手の善を願う、という点である。つまり愛が我欲の否定であることはいうまでもないが、そうだからといって、相手の欲望の充足を補助することでも全くないのである。相手が、名誉欲や金銭欲や色欲にかられて愚かな行為をに走る時、これを煽てたり、黙認したりすることが、愛であるはずがない。愛は、時としては執拗な反抗となり、猛烈な叱責となる。だが、この問題点は結局は「善とは何か」という問いに収斂するのであり、この問いに関しては、本章全体が裏面からいくらでも光をあてたことを期待するものである。(pp290~pp292)
アリストテレスにおける友愛の考え方は自己と他者の間柄に密接にかんけいしていることが岩田靖夫の考えから推察することができる。興味ぶかいのは自己から他者への好意の感情が「愛(φιλία)」の「原理(άρχή)」であるということをアリストテレスがこうさつしていたということである。このことは現代社会に跋扈しているボーイズ・ラブ小説やミッションスクールの禁断の愛を描いた小説のなかの基本構造にきわめて近いと言ってもいいすぎではないであろう。女性が女性を好きになることは愛なのか、それとも好意なのかまた、男性が男性を好きになることもアリストテレスの愛の基本構造からみちびきだすことができる。
 芸術行為という観点からみると舞踊という芸術行為を例にしてみると身体を介して自己と他者と交わることは好意から「愛(φιλία)」へと移行しやすい。感情の移ろいが身体の運動と密接にかかわっているためである。自己の身体の運動が他者の身体とシンクロナイズされるとき、そこには肉体的なシンパシーが現象として自己と他者のあいだにおとづれる。そのシンパシーがアリストテレスの考察した「愛(φιλία)」へと発展するかあるいは身体を介して「愛(φιλία)」を学ぶことができる。それでは存在論キリスト教的なアガペー(無条件的な愛)はどのように考察することができるのだろうか。
その論考は次回に譲ることにする。