『まわる神話構想ノート』より

 私はクラシック・バレエおよび体操競技において身体を媒介にして西田哲学の『思索と体験』や金子明友先生の『わざの伝承』を具現化していくことにする。26歳までに加藤澤男先生のモントリオール・メキシコ・ミュンヘンオリンピックレヴェルの<身体知>を自らの身体を媒介にしてそこから想起したものを理論化していくことにする。おそらく加藤澤男先生の<身体知>はシルヴィ・ギエムさんの<身体知>に限りなく近いと思われる。近年、シルヴィ・ギエムさんは日本の能楽などの文化からインスパイアーされて哲学的な創作舞踏を舞っている。
 しかし、このことは淡々とした日常のバー・レッスンをこつこつと積み重ねた上で身体能力を芸術の閾までに昇華させた結果といっても過言ではないだろう。
 加藤澤男先生の体操はロシア的な集中力に立脚しており、ドストエフスキーの作品をひもとかなければ理解できない精神性がある。それはモントリオール・メキシコ・ミュンヘンオリンピックソ連のニコライ・アンドリアノフと死闘をくりひろげたことと無縁ではないだろう。
 クラシック・バレエにしても体操競技にしても「意識」の問題はさけることができない。演技中に意識がなくなってしまったら、体操競技クラシック・バレエは演技をつづけることは難しいかもしれない。しかし、あるエアロビック選手は自己の演技をVTRで見ているときに「ここ、意識とんでいます」といったそうである。だが、VTRのエアロビック選手は<完璧な演技>をおこなっていた。
 運動をしているときの意識の問題は西田哲学やヘーゲル哲学そしてフランスのベルクソンの哲学もっと緻密に考察するのであれば、フッサールの哲学をから考察することができる。
 しかし、理論がそのまま実践に活かすことができる否かはとても難しい問題であり文献研究だけでは「机上の空論」になってしまう可能性が高い。