友愛についての考察 『ニコマコス倫理学』第八巻よりと『アリストテレスの倫理思想』第八章愛の比較より その一

 『ニコマコス倫理学』のなかで友愛があつかわれている。この考察はげんだいにもなんらかの示唆をあたえると思われる。キリスト教アガペー(無条件的な愛)とどのように違うのか筆者はつねひごろ疑問におもってきた。『ニコマコス倫理学』には主として三つの訳がある第一に藤澤令夫先生の愛弟子である朴一功訳、岩波書店の全集におさめられている加藤信朗訳、そして倫理学の恩師が学生時代読んだ岩波文庫におさめられている高田三郎訳である。
 朴一功訳は日常のことばづかいと訳者自身の「人生の境涯」が文体からにじみでている。加藤信朗訳は論理的なことばづかいでありながらも流麗な筆致でかかれており、論理的な思考を養うために朗読することは有益である。そして、高田三郎訳はある程度の古典ギリシアに関する世界観を勉強しなければ理解して日常世界で自らの生き方に反映していくことが難しい側面をもっているが、二度、三度よみ考察する価値のある訳である。
 『ニコマコス倫理学』では正義や知識の在り方などがかかれており俯瞰的によむと「対人関係を考察するうえでのバイブル」といえる。聖書の場合はキリスト教世界観が非常に根強いために「親しみやすいひと」と「親しみにくいひと」に二者にわかれる危険性をもっている。『ニコマコス倫理学』の第八巻のなかで「友愛」についてアリストテレスが考察している。ここではあるべき友愛を在り方をさぐるために現存しているなめらかな朴一功訳と流麗な加藤信朗訳の比較をおこなうことによって筆者なりの友愛の在り方について考察したい。なお友愛にかんする記述は長く朴一功訳と『アリストテレスの倫理思想』岩田靖夫著のなかの第八章の愛についてとの抱き合わせの比較考察をおこなうので第一章と第二章及び第三章のみとする。なお、第三章に関しては須賀敦子女史のエッセイからの抜粋を引用することにする。

  第一章 友愛の重要性と問題
 実際、愛する友なしには、たとえ他の善きものすべてをもっていたとしても、だれも生きてゆきたいとは思わないであろう。現に、富める者、地位や権力を有する者たちにとってさえ、とりわけ愛する友が必要だと考えられるのである。それというのも、何よりも友人たちとの関係において行われ、かつまた最も賞賛される善行、こうした善行が欠如しているなら、どれほど自分の生活が反映していても、いったい何の意味があるだろうか。あるいはまた、友人たちがいなければ、いったいどのようにしてそうした繁栄は守られ、保全されるであろうか。事実、繁栄は大きければ大きいほど、それだけ不安定になるものなのである。
 貧困や、他の不運においても人々は友人たちを唯一の避難場所とかんがえている。そして、若者たち(10歳〜39歳筆者注)にとっては過ちをおかさないために、また老人たちにとっては世話をしてもらったり、弱さのゆえに失敗する行為を助けてもらったりするために、また壮年(40歳〜60歳筆者注)の者たちにとっては美しい行為のために、友愛は必要なのである。

 二人で行けば・・・・・・。(ホメロスイリアス』つづきは「(二人でいけば)有効な策をどちらかが思いつく」

そうすれば、人々は考えることも行為することもいっそうよくできるようになるからである。
 さらに、親は子に対して、子は親に対して自然に愛情を感じるとおもわれるが、これは人間ばかりではなく、鳥や大多数の動物たちにおいても見られることであり、また自然な愛情はおなじ種族の者どうしの間に、とりわけ人間相互の間に見られるのであって、この理由から「人間愛に満ちた人々(ピラントローポイ)」をわれわれ人間どうしであればだれでも互いに身内のようにどんなに親しくするかを、われわれは目にすることができるであろう。
 また、友愛は国家をもむすびつけ、立法家たちは正義よりも友愛に関していっそう真剣であるようにおもわれる。なぜなら、「協調(ホモノイア)」は友愛に似たものと思われるのであり、立法家たちはとりわけ協調を目指し、敵対関係にほかならない内乱を駆逐しようとするからである。そして互いに親しければ、正義をことさら必要としないけれども、正しい人たちの方は友愛をも合わせ必要とするのであり、さまざまな正しいことのなかでも、もっとも正しいことというのは、友愛に満ちたものと考えられるのである。
 友愛はしかし、われわれに必要であるばかりか、美しいものでもある。なぜならわれわれは、友を愛する人たちを賞讃するからであり、また友人たちとは立派なことの一つだと考えられてもいるからである。それだけでなく、人々は善い人たちと友人たちとは同じ人であるとみなしているのである。
 ところが、この友愛についてはすくなからず論争がある。すなわち、ある人々は友愛とはある種の類似性であって、相似た人たちこそが友となるとみなしており、ここから「似たものは似たものに」とか「類は類を呼ぶ」(訳者注「からすはからすのところに」)などのことわざが言われるのである。他の人々は反対に、相似た人たちはすべて、あの争い合う陶工たちである、(訳者注:すなわちおなじ仕事をする者たちが競合し、さらには敵対するという関係)と主張する。
 そしてまたこうした問題について、より高い次元から、より自然学的に探究する人たちがいて、エウリピデスは「大地は乾くと、雨を恋こがれ、厳かな天は雨に満たされると、大地に降り注ぐことを恋こがれる」と言い、ヘラクレイトスは「対立するものが調和し、異質なものから最も美しい調和が生まれ、すべては争いによって生じる」と言う。しかし、こうした見解とは逆に、他の人々はとりわけエンペドクレスは「似たものをめざす」と主張するのである。
 ところで、ここでは自然科学的な問題はあつかわないようにしよう(なぜなら、こうした問題は、今のわれわれの考察に固有のものではないからである)。むしろわれわれは、人間に関係し、人間のさまざまな性格や情念にかかわるかぎりの問題を考察することにしよう。たとえば、友愛はすべての人々のうちに生まれるのか、あるいは邪悪な人々は友になることあできないのか、また友愛は一つの種類しかないのか、それとも複数の種類があるのか、といった問題である。実際、友愛には一つの種類しかないと考える人たちがいるのであって、その理由は、友愛には多い少ないという程度の差だけが認められるということなのだが、しかし彼らの信ずるところには十分な根拠がない。なぜなら、種類の点で異なっている異なっているものにも、多い少ないという程度の差はありうるからである。この点にかんしては以前にのべられた(訳者注:述べられた場所はみあたらない)

 第二章 友愛の条件
 しかしおそらく、こうした問題については「愛されるもの(ピレートン)」とは何であるかが知られたのなら事情は明瞭になるであろう。なぜなら、すべてのものが愛されるわけではなく、愛されるものだけが愛されるだけが愛されるのであって、愛されるものとは、
(1)善きものであるか、
(2)快いものであるか、
(3)有用なものであるか
のいずれかだと考えられるからである。
 しかるに、有用なものとは何か善きものや快楽をつくりだすところのものとかんがえられ、したがって作り出される善きものは快いものの方は、目的として愛されるものだということになるだろう。
 それでは、人々は善きものを愛するのであろうか、それとも自分たちにとって善きものを愛するのであろうか。というのは、両者は時として同時に衝突するからである。同様に、このことは快いものについてもいえる。だが、各人は自分にとって善きものとは、各人にとってあいされるもののことだとと考えられる。けれども、各人は自分にとって「善きものである」ものを愛するのではなくて、「善きものにみえる」ものを愛するのである。しかし、今この点はどちらでもかまわない。なぜかと言えば、「善きものに見える」ものとは「愛されるものにみえる」ものということになるからである(訳者注:つまり、「愛されるもの」の方にも単に「見えるもの」をつけ加えればよいだけだから、ということ)。
 さて、人々が愛する理由は三つあるが、魂のない無生物を愛することについては、通常、友愛という言葉は語られない。なぜなら、無生物には愛しかえすということがないからであり、またわれわれが、無生物の善を願うということもありえないからである(事実おそらく、お酒にとっての善を願う、などというのはばかげた話であろうが、しかしかりにそのようなひとがいるとすれば、その人はお酒が保全されることによって、実際には自分自身がそのお酒を保持しうることをねがっているのである)。だが、友に対しては、友のための善を願わなければならないといと言われているのである。
 しかし、このような仕方で善を願う人たちは、相手からも同じ願望が生じない場合には、相手にはただ「好意を抱いている」と言われるだけである。なぜなら、友愛とは「応報(アンティペポントス)」が行われる場合の「好意(エウノイア)」だと考えられているからである。とはいえおそらく、こうした応報的な好意に、われわれはさらに、その好意が友となる人たちに「気づかれている」という条件もつけ加えなくてはならないであろう。というのも、多くの人々は、自分たちがまだ見ていないのに品位があるとか、有用であるとか、有用であるとか想定している人たちに対して、好意を抱いているからである。そして、そうした相手であっても、こちらに対して同じ感情を抱いているのは、そのなかのだれかであろう。そのような場合には、その人たちは互いに対して好意を抱いているとみられるのである。けれども、お互い自分たちの気持ちに気づいていない人たちのことをいったいどうして人は友人たちと呼ぶことができようか。
 それゆえ、友であるためには、先に述べられた三つの理由のどれか一つによって互いに対して好意を抱き、かつ、互いの善を願い、しかもそうしたことが互いに気づかれていなければならないのである。

 第三章 人々が愛する理由―友愛の三種類
 これらの三つの理由はしかし、種類の点で相互にことなっている。だとすれば、愛するということも、そして友愛も、それに応じて異なっているはずである。したがって、友愛の三種類も三つあることになり、「愛されるもの」の種類と同数である。すなわち、愛される対象のそれぞれに応じて、当事者に気づかされている「相互的な愛(アンテティピレーシス)」があるということであり、そして、互いに愛し合っている人たちは、自分たちが相手の善を願っているいるのである。
 ところで、有用性のゆえに互いに愛し合っている人たちは、相手を相手の人そのものとして愛しているのではなくて、相手から自分自身に何か善いものが生じるかぎりにおいて愛しているのである。快楽のゆえに愛する人たちも同様である。たとえば、そのような人たちは、機知に富む人たちをそのひとが特定の性質であることによってこのむのではなくて、もっぱら自分たちにとっての善のゆえに相手に愛情を抱いており、また快楽のゆえに愛する人たちは、自分にとって快いがゆえに相手に愛情を抱いているのであって、そうした愛情というのは、愛される人が愛される人であるかぎりにおいてではなく、相手が有用であったり、快かったりするかぎりにおいて、抱かられるものなのである。
 それゆえ、これら二種類の友愛は付帯的なものにすぎない。なぜなら、愛される人がまさに愛されるかぎりにおいて、愛されているのではなく、一方の友愛においては、愛される人は何か善きものを相手に提供するかぎりにおいて愛され、他方の友愛ににおいては愛される人は快楽を提供するかぎりにおいて、愛されているからである。だから、この種の友愛はどちらも、相手がもとの同じような状態にとどまっていなければ、用意に解消されうるものなのである。すなわち、愛する側の者たちは、相手がもはや快くなかったり、有用でなくなったりすれば、愛するのをやめてしまうのである。
 また、有用なものの内容はいつも同じというわけではなく、場合に応じて異なるものである。とすれば、互いに友人であった理由がなくなると、友愛もまた、それが特定の有用性のために存在していたかぎり、解消される、ということになる。このような友愛は、とりわけ老人たちの間にみられ(なぜなら、そうした年齢の者たちは、快いものを追い求めるのではなく、有益なものを求めるからである)、また壮年の者(40歳〜60歳筆者注)たちや若者(10歳〜30歳筆者注)においても、利益を追求するかぎりの人々の間に見られるように思われる。
 のみならず、そのような人たちはお互いのあまり生活を共にすることもない。なぜなら、時には、互いに相手を快く思わないことさえあるからである。だから、互いに有益でなければ、彼らはそうしたつきあいをさらに必要とすることもないのである。つまり、彼らは相手から善きものを期待するかぎりにおいて、相手を快く思っているだけなのである。そして、「客人相互の友愛(クセニケー・ピリアー)」もまた、この種の友愛に含まれているのである。
 他方、若い人たち(10歳〜30歳筆者注)にみられる友愛は、快楽が原因であるように思われる。というのも、彼らは情念にしたがって生きているのであり、何よりも現在目の前にある、自分自身にとって快いものを追い求めるからである。しかし年齢が進むと、快いものも変わってゆく。それゆえ、若い人たち(10歳〜30歳筆者注)はすぐに友人になり、すぐに友人であることをやめてしまうのである。なぜなら、彼らの友愛は快いものに変化するが、彼らの求める快楽は移り変わりが速いからである。また、若者たち(10歳〜30歳筆者注)恋心を抱きやすい。それというのも「恋愛における友愛(エローティケー・ピリアー)」の多くは情念によるものであり、また快楽が原因となっているからである。まさにこのゆえに、彼らはたちまち愛し、たちまち愛するのをやめてしまうのである。しかも、しばしば同じ日のうちにそういう変化が起きることもある。とはいえ彼らは、共に日々を過ごし、共に生活をしたがっているのである。なぜなら、そのようにしてこそ、彼らには自分たちの友愛に応じたものが得られるからである。
 しかしながら、完全な友愛とは、徳に基づいて互いに似ている善き人々どうしの友愛である。なぜなら、そのような人たちは、善き人々であるかぎり、善きものに対して、同様の仕方で願望するからであり、また彼らはほかでもなく彼ら自身に基づいて善き人たちだからである。しかるに、友に対して善きものを、友のために願う人たちどうしはだれよりも互いに友である。というのも、彼らがこのような態度をとるのは、彼ら自身のあり方ゆえにであり、付帯的な仕方によるものではないからである。こうして、善き人々の友愛は、彼らが善き人々であるかぎりずっと続くことになるが、徳とは、もちろん永続的になものである。
 そして、彼らのどちらも、無条件に善き人であるばかりか、相手の友にとっても善き人である。なぜなら、善き人々たちは無条件に善き人々であると同時に、お互いにとっても快い存在なのである。実際、各人にとっては、自分の固有の行為や、それに類する行為が快楽と感じられるが善き人々の行為は互いに同じ行為であるか、相似た行為だからである。
 ところで、善き人々の友愛が永続的であるのは理に適ったことである。なぜなら、その友愛のうちには、友がもつすべてのものが一緒に入っているからである。なぜなら、あらゆる友愛は無条件的にであれ、愛する者にとってであれ、善あるいは快楽が原因となっており、当事者間のある種の類似性に基づいているからである。そして、善き人々の友愛には、今述べられたすべてのものが、友である人たち自身のあり方に基づいているのである。すなわち、彼らは、善き人であるという点で、互いに類似した人たちであるばかりか、無条件に善きもの、無条件に快いもの、というものもかれらにはそなわっているからである。しかもこれらは、最も愛されるものなのである。かくして、愛するということ、および友愛は、とりわけこうした人々のうちにこそ、最良のかたちでみいだされるのである。
 しかしながら、このような友愛は、どうぜん稀なものである。なぜなら、善き人々は数少ないからである。そればかりか、そうした友愛が育つにはさらに時間と親密さが必要だからである。実際、ことわざにあるように、言い伝えられているだけの塩(訳者注:『エウデモス倫理学』に友を得るには時間を要するという主張に関して、「一メディムノスの塩の量がことわざになっている」という記述が見える。一メディムノスは訳52リットル。含意は、友愛が育つには、多量の塩を、すなわち、幾度も共にする必要があるということ)共に食べてみないうちにには互いに相手を知ることはできないのである。また、互いが互いにとって愛される対象として映り、しかも信頼される者とならないかぎり、相手をうけとることも、互いに友になることもできないのである。他方、すぐに相手に対して愛情を示す人たちどうしは、たしか互いに友になりたがっているが、しかし彼らがどちらも愛される対象となり、どちらもそのことを知るようになるのでなければ、実際には友ではないのである。なぜなら、友愛への願望はすぐさま生じるが、友愛というのは、そういうわけにはいかないからである。

 パリ・ローマを旅し、上智大学比較文化学の教授であった須賀敦子女史のエッセイ『塩一トンの読書』にも友愛についての記述がみられるので以下に引用しておく。須賀敦子女史のエッセイは詩的抒情性をたたえながらもイタリア語やフランス語にしたしんだためか論理的なメスのような鋭さもかねそなえているため、書評であっても読者の魂に響き渡る文章でまねるすることはできないであろう。

 塩一トンの読書
「ひとりの人を理解するためには、すくなくとも一トンの塩をいっしょになめなければだめなのよ」
 ミラノで結婚してまもないころ、これといった深い考えもなく夫と知人のうわさをしていた私にむかって、姑がいきなりこんなことをいった。とっさの喩えの意味がわからなくてきょとんとしていた私に姑は、自分も若いころ姑から聞いたのだといって、こう説明してくれた。
 一トンの塩をいっしょに舐めるかなしいことを、いろいろと経験するという意味なのよ。塩なんてたくさん使うものではないから、一トンというのはたいへんな量でしょう。それを舐めつくすには長い長い時間がかかる。まあいってみれば、気が遠くなるほどながいことつきあっても、人間はなかなか理解しつくせないものだって、そういうのではないかしら。
 他愛ないうわさ話のさいちゅうに、姑がまじめな顔をしてこんな喩えをもちだしたものだから、新婚の日々をうわの空で暮らしていた私たちのことを人生ってそんな生易しいものじゃないんだよ、とやんわり釘をさされたのかと、そのときはひやりとしたが、月日が経つうちに、彼女がこの喩えを折に触れ、ときには微妙なニュアンスをずらせて用いることに気づいた。塩をいっしょに舐める、というのが苦労をともにする、という意味で「塩」が強調されていることもあり、はじめて聞いたときのように、「一トンの」という塩の量が、喩えのポイントになったりした。
河出書房新社 p.p9〜p.p10

とあるように人間関係にはもちろん書物についても長い年月ともに寄り添っていかなければ理解することは難しい。いや、理解しようという考え方自体が土台無理なかんがえかたなのであろう。「塩一トンをともに舐める」ほどの忍耐は一生かかることである。疎遠になったり、連絡の不足でわすれさられることもある。