大河小説「医師と哲学者」 Ⅰ

 大谷氏は大学で「男爵」というあだ名をつけられていた。そのことは大谷氏にとってはあまりうれしくないことだった。大谷氏は大学から小説を書くことを命じられて沼津に「ひきこもり生活」をすることになった。大学における勉強はいっさいせずに哲学書や小説を読み、そして小説を書いていった。
 今日は下宿の近くにある名曲喫茶へ行った。すると偶然にも大谷氏の親友である中田氏がベートーベンの第7番を聴いていた。この店では話すことが禁じられていたので、大谷氏は中田氏を手まねきして談話室で話すことになった。ふたりはウィンナーコーヒーを注文した。
「おい、進んでいるのか修士論文は」
大谷氏は中田氏の遅筆が耐えられない。
「ああ、まぁまぁだよ」
「いや、おまえのまぁまぁはぜんぜんとおなじだよ」
「テーマは決まったのかよ」
アリストテレス形而上学と論理学から考察する人間関係論かな」
「そうか、テーマが決まったあとは書くだけだな」
中田氏はたばこに火をつけた。
「おい、体操競技をやっているのにたばこはないだろう」
「あっわりぃ、わりぃ」
大谷氏の言葉で中田氏は火を消した。
「オレ、もうひとつ考えていることがあるんだ」
「なんだよ」
「身体が運動しているときの意識の流れはどうなっているのかなぁと思って、考察することはできるかな」
「できないこともないけど、実践と理論を噛み合わすことがかなり難しくなってくるよ」
「そうか・・・・・・オレ、最近ピアノをはじめたんだ。ショパンの曲聴いたり、バッハの曲聴いたりしていたからやりたくなちゃってね。今、先生と一緒にバッハの『平均律クラヴィーア』を練習しているよ」
「どうせまた3日坊主になるのが関の山だ」
その後も話ははずんで深夜におよんだ。
 しばらくして大谷氏は東京へ行くことになった。東京で語学の修行をするためである。東京には学問どころが多く本屋もたくさんあった。大谷氏はこの「場所」でも「ひきこもり」の状態でひたすら小説と演劇の脚本を書く日々に追われた。頭の中のアイディアがなくなると神田神保町の古本屋街まで散歩に出かけた。大谷氏は哲学に魂をこめて進んでいくためにロシア正教の教会で洗礼を受けたり、ローマ・カトリックの教会で洗礼をうけた。
大谷氏は多神教の立場に立脚していた。
「中田、オレは将来ミッション・スクールの高校で教師をしながら作家になるんだ」
とジンの壜を空けて中田氏に告白をしたことがある。
 東京での「ひきこもり生活」が慣れてくると田丸先生と文通で人体解剖学の通信教育を受けるようになった。田丸先生は京都で病院を営んでいる外科医であった。生命誕生の神秘について医学面以外にも物理学の世界や哲学や深層心理学の方面からのアプローチをおこなっていた。
『 大谷君へ
  元気にしていましたか、腰の痛みはどうですか。私は相変わらずレントゲンを撮っています。クラシック・バレエの動きかたは腰の痛みをやわらげる効果があり、また音楽といっしょに動くことで心の成長にも関わってくるので是非クラシック・バレエをやり続けてくださいね。それと東京で売られているであろうバレエ関係の本と人体解剖学についての本を紹介しておきます。』
 東京の大谷氏の下宿からはオールド・ムービーを上映する場所があり、ルキノヴィスコンティ監督の『若者のすべて』が上映されていた。大谷氏は好きな映画が3本あった。第1は『若者のすべて』、第2は『ロングウェイホーム』第3は『東京物語』だった。
 街をあるいていると着流しの女性があらわれた。大谷氏はすーっとすいよせられるように着流しの女性の入っていった店と同じ店に入っていった。そこは東京で一番大きな本屋であった。
 大谷氏は店員の眼鏡にかなってしまい品出しのアルバイトをするようになった。2週間たつと先輩に呼びとめられて「本に関する経営コンサルタントの本」を書いてくれないか、と言われたが大谷氏は経営、経済、政治が最も興味のない分野であったので死ぬほど苦労して本を書きあげた。しかし、まったく売れることはなかった。嫌なものをいやいやと書いたためであろう。
 大量の売れ残りに本屋の店員は困り果ててしまった。こういうときに本はなくのである。大谷氏はすべて買い取って、古本屋に売るために東京中の古本屋を巡礼した。しかし、思いのほか本は高値で売ることができ、店の問題とならずに済んだ。
 大谷氏は下宿で「ひきこっているとき」哲学書を読んだり、哲学の通信教育を受けることができ「臨床哲学者」になることができた。これには大谷氏も驚きを隠せなかった。哲学の研究者がいちにんまえになるには少なくとも30年の時間がかかるのである。デジタルテクノロジーの進歩、恐るべしと大谷氏は唸った。
 しかし、「臨床哲学者」となってしまったおかげで「旧帝国大学巡礼」をしなければならなくなった。教育者となるのだからこれくらいのことは仕方がないとあきらめて東京から広島、そして東北へと<教育の在り方>をめぐる巡礼に出た。長崎ではキリスト教の魂にふれることができた。
 (つづく)