『まわる神話構想ノート』より

私は<物語り>をあつめている。なぜならば私が<物語り>を書いていきたいためである。普遍的な<物語り>いいかえるならば<おとぎばなし>として『まわる神話』および『教育哲学ショートショート』を書き続けていきたい。固有名詞を使わないで書かなければ、普遍的な<おとぎばなし>を書くことはできない。そのために自然と古い童話やジュブナイル小説へとその志向がむく。そして、英語やラテン語などの語学の習得も<おとぎばなし>が<閉じた文体>から<開いた文体>へと変容させるために必要なことだとおもわれる。特に古代ギリシア語や宇宙語のようなエスぺラメント語などの「わけのわからない言語」の習得も日本語表現のあらたな光をあたえるかもしれない。大学の先生は横書きは抵抗感がないけれども縦書きは思考が深い表現ができるよな、と教えてくれた。しかし、私は語学の勉強が好きではない。はっきり言えば根性が無いのである。英語の勉強にあてる1日1時間にも満たないし、フランス語やドイツ語などの外国語はほとんど適当にやっている。家族のためになることは何もしていない。いわゆる<怠け者>である。他者との出会いを恐れているために共同体に踏み込む勇気がないのである。人と人との間柄の学が倫理学であるとすれば、私は<他者の≪うち≫>に入ることをしない。それでは私は何学をやっているのであろうか。
 赤ちゃんがさまざまな障害を乗り越えて他者を自己の愛し方とおなじように愛することが可能になったとき、共同体が誕生するように仕事場や学校における共同体の生成もおこるのであろう。しかし、問題となるのは学習する「場所」である。

第一に私は2月〜3月まで沼津に存在する。そのあと東京へ行って東京復活大聖堂(ニコライ堂)で洗礼(ハブテステマ)を受けて浄土真宗からギリシア正教に改宗するか、ギリシア正教の洗礼をうけつつも浄土真宗を信仰しつづける身でありたい。またアテネフランセという語学学校で古典ギリシア語やフランス語をまなぶという学習の「場所」

第二に京都の大谷大学へもどって恩師からアリストテレスの倫理思想やマックス・シェーラーの倫理学を人間関係学としていかしながら発達心理学の場面にもその教えを学ぶという学習の「場所」
ニ者択一の問題で揺れ動いている。
 私の本心は第一番目の意見である。東京慈恵医科大学付属病院で「統合失調症」あるいは「うつ病」の治療を森田療法で治療することになる。おそらく「外来森田療法」になると思われる。その治療を継続しながら、京都バレエ専門学校の東京支部クラシック・バレエの稽古をしたり演劇の脚本を書いたり、ショートショートを書いたりすることを仕事としてできればと妄想している。しかし、森田療法をしているうさぎ老師によると「音楽にふれるということはたいへんよいことです。自己の論理が他者の論理に媒介されますからね」とクラシック・バレエなどの芸術に携わることに警笛はならしてはいなかった。
今後のことは叔父とお茶を飲みながら話し合いたい。