大河小説「医師と哲学者」Ⅳ

 みなが黙々と受験勉強に取り組み教室中ではシャープ・ペンシルの音だけが響いていた。大谷氏はぞっとした。仕方なく予定通りに授業を進めることになったが、教室にいる生徒たちはそれぞれ受験勉強のための<内職>に取り掛かっていた。大谷氏は良心の呵責を抑えながらも淡々と授業を始めた。苦しい時が教室を流れた。だれか聴いているのだろうか・・・・・・。60分間しゃべるとても後味の悪い授業となった。
 その夜、大谷氏は東京のかつて文士が集まり「文壇バー」と言われたバーでジン・トニックをちびりちびりと飲んだ。ジン・トニックを飲んだあとはナポレオンという高い酒をジンジャー・エールのウィルキンソンで割って飲んだ。しょぼくれた顔をしていたのでマスターが声をかけてきた。
「どうしたダンナ、顔色が悪いよ」
「いやぁ、仕事っていうか、今日はばつが悪かったもんでね。別に仕事でぽかしたわけじゃないんですよ」
「いや、仕事だね。顔にそう書いてあるよ」
「いやぁ、まいったなぁ、初めて入った店なのにそんなこといわれちゃうなんて。いやぁ本当にまいったなぁ」
大谷氏は頭をぼりぼりかきながら微笑んだ。
「お客さん、今日は善い娘があそこで氷を丸くこしらえてるよ」
「いやぁ、ぼくは女の人は苦手なんですよ。女系家族で育ったものだし、乙女っぽいところがあって・・・・・・いやその<そういう風に>見ることはできないんですよ」
「そうですか、貴方、ひょっとして物書きでしょ。ファッションからわかるよ。善い万年筆もってるし」
「ばれてしまいましたか」
「ばれてますとも、それも顔に書いてある」
ふたりは笑った。その笑いにさそわれたのかむこうにいる娘さんもくすくすと笑った。
 しばらく飲んで「くんせいの玉子」を食べたあと大谷氏はショートショートを3作書いた。バーに行くと酒のせいかショートショートだけは書くことができる。しかし、おちついた喫茶店でなければ小説を書くことができない。それは大谷氏の性分だった。
 次の日大谷氏は倫理学の講師として教室に入った。朝はいやだ。大谷氏はどうして夜間の高校にしてくれなかったんだろうと内心ミッション・スクールの校長をうらめしくおもった。しかし、32名の生徒が待っている。戸を開けなければ、それが私の責任だと心につぶやいて教室の戸を開けた。すると黒板には「帰れ!」と書いてあった。いつものか、大谷氏はいつものように授業をすることにした。しかし、この日は少し違っていた。教室の前の席の女の子がじっと大谷氏を真剣な眼差しでみつめていた。あしたも授業の準備と顔と名前を忘れないようにしようと大谷氏は思った。
 大谷氏の鎌倉の新居は6畳のアパートだった。そこには倫理学の授業で使うか、使わないかもしれない大量の哲学書と文学書、それから現代小説があり、座卓があった。小説は全て手書きで書いていて、パソコンもTVもなかった。部屋には体操競技クラシック・バレエの理論書、それから人体の骨格標本が置いてあり、真空管アンプにつないだレコードプレーヤーがおいてあった。やかんのそばにはコーヒーミルが置いてあり、スマトラ・マンデリンとモカ・マタリのコーヒー豆が置いてあった。
 大谷氏は経営、経済、に関する学問にまったく興味がないといっていたにもかかわらず、そのたぐいの本もあった。昨日のバーのマスターには、
「お金がすべて消えるから経営、経済の本をかったけど哲学書にお金が消える割合が多いから、下宿の経済は自転車操業なんです」
と笑うに笑えない冗談を言っていたが、高校で体格が体操選手のようだ、という理不尽な理由から体操競技部と女子新体操部と男子新体操部の顧問になったときはいかにしてチームを勝利へと導き、落ちこぼれをなるべく出さずにするか経営学と経済学の本は思案するための「道具」になった。また、バーとの出会いは一期一会であり、ゲーム理論の専門家が「よもやま噺」を酔った勢いで話してくれたこともかなり役に立った。3カ月ぐらいで大谷氏は東京の高校になじむことができた。
(続く)