『まわる神話構想ノート』より

<物語り>や<おとぎばなし>をつむぎだすとき、私は何が<物語り>で何が<おとぎばなし>であるのかわからない。長編小説が<物語り>であるのか、あるいは絵本や寓話が<おとぎばなし>であるように思われるが、ファンタジーの<物語り>となると少し違うのではないかと考えざるをえない。いわゆる古典とよばれる作品は時の流れに耐えてきたことを考えていくと「神話」とみなしても善いのではないかと思われてならない。
 私は子どもの成長において<おとぎばなし>や<物語り>に出会うことは社会生活で壁にぶつかったときに「救済」の役割をになってくると考えている。映画『サガン』を観た時に子どもにニーチェを読み聞かせていたサガンが友人に「ニーチェはどうよ」とたしなめられるシーンを観た時、私は思わず吹き出してしまった。ある意味、教育哲学をフランソワーズ・サガンは先取りしていたつもりだったのだろう。フランソワーズ・サガンは幸福な人生を送っていたのか否かについて私は現在でも思案している。17歳から作家デビューし文壇の寵児となり、華々しく社交界の仲間入りをした彼女は晩年はその華々しさとは裏腹な人生だった。それは映画『シスター・スマイルドミニクの歌』にも象徴されている。ドミニクはキリスト教の伝道のためにギター片手に歌をうたい続け頂点を極めていく。しかし、晩年はそのフランスのシャンソンのように「人生の悲哀」がにじみ出て幕がおりてゆく。