『まわる神話構想ノート』より

私は理性の法則に基づいて論理学を学ぶことにする。そこには対旋律がみられるだろうし、コンピュータのなかのアルゴリズムのようなものがみられるかもしれない。どちらにしろ主体的に行動していこう。クラシック・バレエのpasは一種のコードであるが、またそれはトポロジーの輪の集合論のようでもある。鏡をもちいたレッスンには自己と他者の面影が写しだされる。レッスンは集団的経験であり、時には野生の思考がもとめられる場合もある。
 クラシック・バレエのバーのレッスンは一種の肉体の錬金術である。乙女は神秘のベールをとりはずし、紳士もまた満たされない欲望を解放する。しかし欲動のままに動くことは理性的とはいえない。どのようなことがあろうとも自己は<自己の理性>に基づいて行為すべきである。主体的に行為していけば自ずからそれは経験的となる。しかし、りせいには限界があるので<自己の理性>に基づいて行為することは簡単なことではない。哲学的問いはどのような芸術行為でも存在する。
第1に人間とはなにか
第2に私は何を望むか
第3に私は何をなすべきか
第4に私は何を知りうるか
 これらの問いを<自己の理性>の範囲内において行為することはすべての知の可能で有益な方法だと思われる。
 クラシック・バレエには熟練の教え手が教え子にわざを伝承する<生き生きとした>営みが存在する。その<動きかた>の形象は<眼にみえないもの>であるが、時としてフレスコ画のような美しさを有する場合もある。霊魂の不死であるためにたとえ<動きかた>の主体者がいなくとも「神の実定法」に基づき<動きかた>を再現することは可能である。それは科学の樹によってなのかは書くことができないが、神秘経験によるものが無いとは言いきれない。
 しかし、神秘経験が「夢ではない」と言いきることがどうしてできようか。血で養われた教え手と教え子の営みは無意識の問題が常につきまとっている。反復の練習のなかに人間の知の源泉が存在するのである。
 それは哲学のシンボルであり、数学の代数学や証明における論述ではない。ハムレット神話における父親の亡霊はヒステリーにおちいっている息子を救おうとするが幕の終りにそれは「救い」ではないことがわかる。このことは心理学や精神分析のカテゴリーの教育分析におい現実体をもたないものなのかもしれない。<動きかた>の伝承の営みにおいては常に聴取者が存在する。それは<生まれなかったもの>のアレゴリーなのかもしれない。わたしは新約聖書旧約聖書をひもとくことによってこの謎を<明るみ>にだしていきたい。