医師と哲学者 Ⅴ

大谷氏は下宿でゴット・ファーザーのペーパーバックをひとりで読みながら、ジンジャーエールを飲んでいた。明日は学校で英語の授業をしなければならない。英語の先生が海外へいってしまったためだ。英語の参考書をひっぱりだしてきて、線を引きながら授業づくりのプロットを頭のなかで行っていた。いつも大谷氏は授業づくりのプロットは頭でおこなっていて自然の流れにさからわないようにしていた。大谷氏はきりのいいところで終わりにしていきつけのバーへいった。
 いきつけのバーにはいつもの親父さんとアルバイトの娘さんがいた。
「やぁ、いらっしゃい」
 あたたかな声でバーの親父さんは大谷氏を迎え入れた。大谷氏は構文がのっている本を片手にバーの隅の席へとすわった。
くんせいの玉子ひとつとウォッカジンジャーエール割りおねがいします」
構文にしるしをつけることは大学時代の大谷氏独特の勉強方法だった。2時間ぐらい構文の本と戦いが終わるとバーの娘さんとよもやま話をしはじめた。
「君は大学生なの」
「そうです」
「何を学んでいるの」
量子力学です。現在は量子テレポーテーションの実用化について研究を進めています」
「どんなことをするの」
「実験用の研究室があってそこには鏡のちいさなスプーン状のものが何個もならんでいるんです。そしてレーザー光線をあてると鏡の反射によってひとつのコンピュータの回路のようなものができるんです。私はその回路の精度のチェックをやっているんです」
「おもしろいね」
 大谷氏はらんらんと輝く眼で話を聴いていた。大谷氏もかつては医学の研究畑いたため、そのときの気持ちが蘇ってきたのだった。
「ぼくも医学をやっていた。精神科で人体の神経と薬の反応を確かめる実験をやっていたんだけど、あまりに上司とうまが合って、外部とのこぜりあいが生まれて医学のほうはやめにしたんだ。それから哲学にもともと興味があったから哲学の方面へいったんだ」
 アルバイトの娘さんは神妙なおももちで大谷氏の話をきいていた。大谷氏はアルバイトの娘さんといろいろな話をした。大谷氏はかつて体操競技クラシック・バレエをやっていたことを話した。するとアルバイトの娘さんもクラシック・バレエをやっていることがわかった。
「ぼくは独学で流体力学アインシュタイン相対性理論を学んだりしたけど、どっちつかずだったなぁ」
3時間ばかり親父と娘さんと話したあと大谷氏は下宿へと戻った。
 あくる日、学校では大谷氏が英語の授業をやることで話がもちきりだった。
「あの英語嫌いの大谷がよく授業をやるよなぁ」
「そうね」
「どういう展開になるのやら」
 大谷氏はいたずら好きな生徒が教室の戸に黒板消しを隠していないか確認してから戸を開けた。いつものようにシャープ・ペンシルの音があたりを包んでいた。
 教科書どおりに授業がすすんでいったが、時々、小説家の苦悩やサマセット・モーム、ヘミングェイの話などをしだすと教室の何人かが耳をかたむけるようになった。
「小説を書くことは小説をよむことの2倍は難しんだ」
そう言い終わると大谷氏は教室を後にした。
 大谷氏は下宿に帰ろうと身支度をして教頭先生にあいさつをしたあと教員用の玄関のところへ行った。そこには白い封筒に「くろまく」と書かれた手紙が置いてあった。いぶかしげに大谷氏は手紙を裏返すと「大谷氏へ」と書かれていたので驚いてしまった。そっと鞄のなかに手紙を入れると大谷氏は下宿の階段を上って部屋の戸を開け封筒の中身をあけた。そこには大谷氏を驚かす内容が書かれていた。
(つづく)