医師と哲学者

大谷氏は中田氏のことをおもっていた。古い友人なのだ。京都のせまい六畳間のアパートには哲学や小説が山積みになっていた。大谷氏はかつて「やもめクリニック」で精神科医として勤めをはたしていたが、上司の村上先生と「うま」が合いすぎたために教職に就くことになった。
 大谷氏は小説を書いていたそれはハードボイルドなタッチでヘミングェイの香りをはなっていた。大谷氏は神経衰弱を患っていたので、小説を書くことはいわばその治療でもあったのだ。中田氏には、
「小説を書いたらどうだ。お前の小説が読んでみたいし、善い気分転換になる」
とかつて言われたことがあったが、大谷氏にはその「自覚」がまったくなかったので、いかんともしがたい気分が大谷氏をおおっていた。
 しかし、「くろまく」のことも気がかりになってきた。まだ中田氏は「くろまく」から中田氏をかえしてもらっていない。「くろまく」は
「われわれはユダヤ商会に所属している」
と言っていたが、大谷氏は「ユダヤ商会」のことを全く知らなかった。中田氏を助けるために論文をかいたにもかかわらず、意味のわからない組織がつぎからつぎへと出てくるので大谷氏はこまってしまった。
 大谷氏は気分転換に京都の街を散歩することにした。ここのところ息の詰まるようなことばかりで嫌になっていた。五条大橋をわたると「ユダヤ商会」という看板が眼にはいった。
「これかもしれない」
と大谷氏は看板のついた小屋の中にはいっていった。