西田哲学の朗読の意義

 西田哲学は得意な哲学である。西田幾多郎坐禅を通した身体感覚で哲学的なエッセイや論文を書いていった。その文体は夏目漱石太宰治に限りなく近いのかもしれない。『善の研究』はカント哲学やヘーゲル哲学を西田幾多郎が自ら咀嚼しウィリアム・ジェイムズの心理学の概念をとりあげながらかきあげた労作である。その文体の坐禅における<無我の境地>における身体感覚をとおしていない読者には<わかりにくさ>がのこるのかもしれない。
 私は京都の下宿にいたころ『善の研究』および『思索と体験』を朗読し坐禅を組み理解しようとしたが、その理解はカントの『純粋理性批判』やヘーゲルの『精神現象学』を咀嚼しきれていないために「純粋経験」がなんであるかわからなかった。ある種のSFのような東洋の神秘主義的な傾向が日本哲学を覆っているが、京都学派の色彩はそのなかでも異彩をはなっている。それは西田幾多郎の禅体験に裏打ちされた身体感覚と無縁ではないだろう。沼津の下宿にもどって『善の研究』や『思索と体験』の「純粋経験」を西洋のハイデガーの『有と時』の包括てきな現存在分析をつかって照らすように朗読することによって西田幾多郎の禅体験の身体感覚を「純粋経験」によって表現するようにしていく。

第一に『有と時』を西田哲学の理解の手引きとして朗読する。

第二に『善の研究』と『思索と体験』を教育学に結び付けて理解するために朗読しまた身体感覚を研ぎ澄ますために坐禅をする。

第三に「純粋経験」の概念を芸術にとりいれ、意識の考え方もまた芸術や教育の場面に取り入れる。