『まわる神話構想ノート』より

私は小学校のころ友人といっしょにピストルのおもちゃを集めて遊んだことがある。その盛り上がりぶりはカーニバルのようであった。夏になるとピストルのおもちゃから水ふうせんとなり水ふうせんに水をいれて輪ゴムをつけて投げ合って遊んだ。
 その遊びは子どもごころにわくわくしたことを今になっても善くおぼえている。男の子はこのようにギャングのような遊びをすることが多く、時には女の子から「阿呆ね」と言われることも一度やニ度のことではない。超自然状態になること男の子は何をするのかわかったものではない。
 ピストルのおもちゃで撃ち合う遊びではなかば命がけであった。ピストルのおもちゃから放たれるプラスチック製の玉は<あたると痛いもの>だった。その痛みは筆舌に尽くしがたいものがあった。共同体の存在を<あたると痛いもの>によってありありと知っていったのである。
 現在は<あたると痛いもの>が<共同体に飛び込む勇気のなさ>になってしまった。私は「書くこと」が生きる目的となって、考えることの源泉となっていった。そこには思考や感情の<ひだ>があり、痛みなども書きしるされている。文章は「奥歯で噛みしめる」ように書いているが、いまだにその下手さ加減がなおらないのでこまっている。

 自己が他者にであう時にその「場所」には自己が深く他者との出会いの「時」とともに記憶に刻みこまれる。その他者との出会いの「時」が強ければつよいほどその「場所」もまた忘れがたくなるだろう。
 小説を書くとき<生きた時間>や<生きられる時間>を思い出して、小説の言葉にのせるときには比喩として<物語り>や<おとぎばなし>をつむいでいく。また、読んだ<物語り>や<おとぎばなし>を再構成したり、あるいは<読み違え>たまま自己の<物語り>や<おとぎばなし>に変容して新たな小説を書いていく。
 しかし、それらは本当に<物語り>や<おとぎばなし>であるかと問われるとまだまだ小首を傾げたくなる。「経験」と「時間」を織物のように織っていかなければわからないことなのだろう。