『まわる神話構想ノート』より

 「無」から「有」を生みだす営みは想像以上に人間の理性を必要とするが、私には理性が少ない。そのためにショートショートを書いたとしても「おとぎばなし」にならないのである。夜、眠れない時にまとまった考えが思いつくとノートに書きつけているが意味のある行為であるのかわからない。私は元来口下手であるために、筆をもって書くことの方が無意識のレベルにまでおりて心情を表現することができる。そのために思いがけない倫理的ではない表現も書いてしまうことに内心腹立たしく思わずにはいられない。
 
キリスト教浄土真宗に関わる文学を書き続けていきたい。ヨハネパウロの行為や親鸞の回向について私なりに考察していきたい。いかんせん私が文章をかいてしまうと<知識のたれ流し>になってしまうので善くない。これからの計画を記すことにする。京都に行く前に東京と神奈川の横浜へいって教会を巡っていきたい。そして、鎌倉にある宿に泊まって集中的に論文やレポート、小説を書いていきたい。その過程においてクラシック・バレエをやっているひとびとと交流ができればと、ヨハネに祈っている。
 
なぜならば西田幾多郎の「純粋経験」の概念に私は運動や芸術行為としての「純粋経験」を考察の対象にしていきたいためである。西田哲学が運動における美学として大成するかはまだ疑問の余地があるがやってみることは無為なことではないであろう。