『まわる神話構想ノート』より

 私は古典作品の小説を読み、その作品をもとに自ずからの小説として書くことによって、過去・現在・未来の自己を見つめていきたい。自己を深く見つめることができなければ、他者のことを見守ることはできないと考えたためだ。「書く」という行為は身体を媒介にして<自己をあらわにするいとなみ>である。
 書くことは音楽とつながりが深い。走っているときだれもがそうだとは限らないが、なんらかの音楽をこころのなかで流しながら走っている。書くことも同様に音楽がその<書き手>のなかでしんしんと響きわたっているのではないか。
 そして書くことは生み出すことでもある。精子が卵細胞のなかに入り込んでひとつの生命が誕生するいとなみが<書き手>と<読み手>のあいだのなかでたんなる現象とはいいきれない出会いをうむ。
 100年前にかかれた書物が翻訳といういとなみや本屋さんや図書館の司書さんの手で守られ、見守られながら、その書物が多くの人々の眼差しに見つめられ<読み手>と書き手>の深層のコミュニケーションとなり「読書」という行為が成立する。