『まわる神話構想ノート』より

私は無意識のあらわれは身体にあると考えている。言葉のあらわれも見逃すことができないが、それよりもおおきな無意識のあらわれは<身体の動き>だと思われる。
 このことは深層意識の鉱脈につながっていると考えても善いだろう。西田幾多郎は『意識の問題』のなかで

 物が我々に意識せらると否とは物自身に何等の変化もないと考えることができる。例えば数理とか数理現象とかいふものが我々に意識せられると否とは何等のかんけいもない

 と言っている。このことは数学や理科において考察するときに無意識がはいりこまないことをあらわしている。
 クラシック・バレエやピアノの演奏の<動きかた>においても同様に数理の問題が介入する部分があるが、人間の感性の部分には無意識の部分ではpersonalityの問題によるところが大きいとおもわれる。