無意識について考えるようになったわけ

 私は無意識のことについて考察をしはじめたのは「考えること」がなにもなかったから。どうしても「考えること」をしたかったので無意識について考えることにしました。ある対象がはっきりしていれば「考えること」はらくなんだけれども、対象がぼやけていると「考えること」が難しい。存在と無について考察していけば、その道程がみえてくることを日常の生活をとおして知ることができました。
 書くことについてはスプリントと同じように瞬発力がいります。それは「思考の瞬発力」でテストでわかるものではありません。たぶんこどものほうがおとなよりも「思考の瞬発力」があると私は現在、考えています。
 深層意識はこどもの魂のほうがおとなよりも深い場合が多く、おとなでもこどものままにそだった場合、深層意識は深い場合が多いかもしれません。
 このことは深く考察していく余地がありそうです。

へーゲル頭蓋論

へーゲル頭蓋論
 自己意識が自分の直接的な現実に対してもつ関係の観察、人相術と頭蓋論
 
 心理学的な観察は自己意識が現実に対してもつ関係の法則を決して見い出しはしない、言いかえると、この観察は自己意識が自分に対置せられた世界に対してもつ関係の法則をけっして見出しはしないのである。そこで自己意識と世界との両者がそうごに没交渉であるので、このことにうながされて、心理学的な観察は実在的な個体性に固有な限定のほうへと押しもどされて行くことになるが、この個体性とは即自的に且つ対自的に存在するものであり、言いかえると対自的と即自存在との対立を己れの絶対媒介において消去して内包しているものである。かかる個体性が今や観察にとって「発生」しているところの対象であり、言いかえると観察はこの個体性に移っていくものである。

 心理学と人体解剖学を組み合わせて医学の「場所」の倫理について考察していきたい

『存在と時間』の読解

私は『存在と時間』を心理臨床やスポーツ運動学の視座からよみといていこうとかんがえている。このことは物語り解釈についてもふくまれている。物語り解釈については主として村上春樹文学やドストエフスキー文学においている。
 読解についてはイデーがまとまりしだいブログにかきしるすことにする。

『まわる神話構想ノート』

私は『医師と哲学者』という作品をひとつの無意識のワンダーランドにしていきたい。そのことによって深層意識の世界が<開いた物語り>となり意識における現象が眼の前に<開いてくる>と思われる。そのことは自我における≪妄想≫かもしれないが、<万人のための物語り>となるように深いところまでつきつめていけば可能になると思われる。
 英語版のmurakami haruki文学を精読することによって考察していきたい。

カラマーゾフの兄弟とゴット・ファーザー

 私は無神論おとぎばなしであるカラマーゾフの兄弟はゾシマ長老の死によってアリョーシャの実存が大きくゆさぶりをかけられることになるこのことはゴット・ファーザーのなかでのドン・コルレオーネの死とむずびついていると思われる。形而上学の大小説はどのようによまれてもその切り口をみいだすことができるのであろう。

医師と哲学者

大谷氏は中田氏のことをおもっていた。古い友人なのだ。京都のせまい六畳間のアパートには哲学や小説が山積みになっていた。大谷氏はかつて「やもめクリニック」で精神科医として勤めをはたしていたが、上司の村上先生と「うま」が合いすぎたために教職に就くことになった。
 大谷氏は小説を書いていたそれはハードボイルドなタッチでヘミングェイの香りをはなっていた。大谷氏は神経衰弱を患っていたので、小説を書くことはいわばその治療でもあったのだ。中田氏には、
「小説を書いたらどうだ。お前の小説が読んでみたいし、善い気分転換になる」
とかつて言われたことがあったが、大谷氏にはその「自覚」がまったくなかったので、いかんともしがたい気分が大谷氏をおおっていた。
 しかし、「くろまく」のことも気がかりになってきた。まだ中田氏は「くろまく」から中田氏をかえしてもらっていない。「くろまく」は
「われわれはユダヤ商会に所属している」
と言っていたが、大谷氏は「ユダヤ商会」のことを全く知らなかった。中田氏を助けるために論文をかいたにもかかわらず、意味のわからない組織がつぎからつぎへと出てくるので大谷氏はこまってしまった。
 大谷氏は気分転換に京都の街を散歩することにした。ここのところ息の詰まるようなことばかりで嫌になっていた。五条大橋をわたると「ユダヤ商会」という看板が眼にはいった。
「これかもしれない」
と大谷氏は看板のついた小屋の中にはいっていった。